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魅惑な町・信太山です☆

JR阪和線エリア

信太山駅は、踏切長時間鳴動対策のために駅前後の信号機が絶対信号機に変更されたため、停留所ではない。駅舎は和歌山方面行ホームの和歌山寄りにあり、反対側の天王寺方面行ホームへは地下道で結ばれている。

駅周辺には、歴史的な建物や、信太山青少年野外活動センターなど今と昔をよく融合した落ち着いた環境です^m^

また、信太山駅周辺は、どちらかというと、建物が混雑しており、治安も一見よくないようなイメージですが、駅を少し離れると、閑静な住宅街です。

電車通勤の方は、必見です。数年前のダイヤ改正で昼間に区間快速が設定されましたので昼間は乗り換え無しで天王寺まで行く事ができます。 朝ラッシュ時も鳳駅まで行けば鳳駅始発の快速が狙えます。朝のラッシュ時に座って通勤できるのは、魅力的ですよね☄

 

歴史的な観光名所・池上・曽根遺跡

~二千年の時間をこえて・よみがえる弥生浪漫~
大阪府和泉市池上町を中心に南北1.5キロメートル、東西0.6キロメートルの範囲に広がる池上曽根遺跡は、総面積60万平方メートルもの規模をもつ大遺跡です。弥生時代の全期間(2300~1800年前)を通じて営まれた、わが国屈指の環濠集落(周囲を溝で囲んだ集落)と言われています。
1976年に環濠に囲まれた範囲を中心に、約115,000平方メートルが国史跡に指定されました。池上曽根遺跡がもっとも栄えた弥生時代中期(2200~2000年前)の姿を現代によみがえらせるために、1995年から史跡整備を行なっています。

また、 大型建物は壁のない高床建物で、屋根裏が二階になった屋根倉形式といわれる形で復元されました。近くで見つかった土器に描かれていた弥生時代の建物の絵をもとに、全体の形が決められました。約80畳の広さがあり、高さは11メートルもあります。階上は神の宿る聖なる部屋、階下は人がたくさん集まるスペースとなっています。 屋根の上には神の使いの鳥をおき、屋根の形は魂を運んだと言われる聖なる船の姿をイメージしています。
建物の両側には池上曽根遺跡の成り立ちや日々の暮らしの物語りを、色鮮やかな木彫りのレリーフで表しています。弥生時代の絵画の表現をかりた、現代人から弥生人へのメッセージです。
建物の復元には、和泉市父鬼町の三国山で伐切された50本のヒノキを使っています。また、井筒に用いたクスノキの大木は、東大阪市から寄贈していただきました。復元完成にあたり、全国から愛称を募集したところ、5,000通をこえる応募があり、建物は「いずみの高殿」、井戸は「やよいの大井戸」と決まりました。

公園になってるので、もちろん使用料・入館料は無料♥ひろ~い敷地には、復元建物(大型掘立柱建物、井戸、竪穴住居ほか) 遺構復元(環濠、竪穴住居跡、祭祀遺構、ほか) 弥生情報館(公園案内所) 弥生学習館(体験学習施設)と色々あります。また学習館では、弥生時代のものづくりを体験できる施設です。勾玉づくり体験や弥生時代の笛、ブレスレット、コースターを作る体験教室はいつでも体験できます。予約をすれば土器や土笛、ガラス玉を作ることができます(ガラス玉は中学生以上)。館内には、大型掘立柱の屋根を支える柱の穴から見つかった勾玉をはじめ、建物が描かれた土器などがある展示ホール、弥生人に変身できるコーナーや、ビデオや本で弥生時代やモノの作り方について学ぶコーナーもあります(●^o^●)

歴史好きのかた・必見です☆伯太陣屋

和泉国和泉郡伯太村(現・大阪府和泉市伯太町)にあった陣屋で、伯太藩の藩庁である

1727年(享保12年)、初代藩主の渡辺基綱が居所を和泉国大鳥郡大庭寺村(現・堺市南区大庭寺)から和泉国和泉郡伯太村に移し、伯太陣屋が築かれた。

陣屋は現在の和泉市伯太町3丁目から4丁目にかけて、信太山丘陵の西側斜面を利用して設置されており、丸笠山古墳の周濠をはじめとする大小のため池が、御殿および家臣団の居住区を取り囲んでいた。中心となる御殿は4丁目に所在し、信太山駅から伯太神社を経由して丸笠山に至る道路と熊野街道(小栗街道)の交点に大手口を設けていた。陣屋は明治以降に破却され、現在では痕跡もほとんど認められないが、陣屋裏門が小谷城郷土館(堺市南区豊田)に移築されて現存している。

伯太村の旧来の集落は伯太神社付近にあったが、陣屋設置以降に小栗街道に沿って町場が形成され、前者は下伯太(したはかた)、後者は上伯太(うえはかた)と通称される。御殿および家臣団の居住区は屋敷と通称され、明治以降もしばらくの間、伯太在住と称して伯太村とは別扱いだったが、元家臣らの転出が次第に進み、1886年(明治19年)に伯太村へ合併され、現在は上伯太の一部となっている。一度、見てみてはいかがでしょうか???

自衛隊の基地もあります!信太山駐屯地

信太山駐屯地は、日清・日露戦争において勇名を馳せた旧陸軍野砲兵第四聯隊が、
大正8年11月に大阪法円坂より移駐し終戦まで駐屯し、終戦後の昭和20年から
昭和32年までは米軍が駐留し、海兵隊の下士官養成学校として使われていました
が、昭和32年9月、陸上自衛隊信太山駐屯地として開設されました。
 駐屯地の面積は約20万平方メートルで甲子園球場の約5倍の広さがあり、第1
7代履中天皇の皇子である市辺押歯皇子の墓といわれる鍋塚を中心に、各隊舎、厚
生センター、体育館が整然と配置される緑が多い駐屯地でもあります。
また旧軍時代からの建物も数多く残っており、特に旧将校集会場は野砲兵第四聯
隊が大阪法円坂より移駐時に、明治天皇の娘婿であられる当時の第一大隊長、北白
川宮成久王殿下の執務室として建設され、その後終戦まで将校集会場として使用さ
れた建物で、歴史的価値も高く、現在では修史館(資料館)兼幹部集会場として使
用されています。

「さざれ石」は、国歌「君が代」に詠まれているとおり大小の石が永い歳月のう
ちに凝結して自然に大きな巌となったものであります。
それは、まさしく協調団結の精神を意味し、私たちの家庭も地域も国家もみんな
が心を合わせて進めば千代に八千代に栄えてゆくことを象徴するものにほかなりま
せん。この度、岐阜県揖斐群揖斐川町春日の日本さざれ石の会のご厚意により信太
山駐屯地創立五十周年を記念して、ご寄贈いただいたものです。
土台に使用している石材は、旧陸軍野砲兵第四聯隊が駐屯時正門に使用されてい
た門柱を当駐屯地創設に際し、建て替え保存していたものです。
古き伝統を、楠正成公ゆかりの楠木の下で、第十七代履中天皇第一皇子市辺押歯
皇子古墳(鍋塚)とともに継承していくために、この場所に設置しています

大阪市立信太山青少年野外活動センター

大阪府和泉市に大阪市が設置している青少年向けの野外活動施設。

うしろに金剛山・葛城山をひかえ、泉州平野を見下ろす和泉市の丘陵地にあり、大阪市内から車で約1時間で到着します。
敷地面積は17万平方メートル(約5万坪)で、周辺の宅地開発から切り離され、自然が残されており豊富な植物や昆虫に接することができます。青少年団体や学校団体の野外活動や自然体験の場として、クラブ・サークルの合宿、家族やグループのレクリエーションなど、どなたでもご利用いただけます。