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古と未来が交錯した今がある阪堺沿線

周辺環境

チンチン電車はほぼ旧紀州街道に沿って堺のまちを走り抜け、明治44年以来約100年間まちの風物詩となっています。市内中心部ではほぼ大道筋に沿うような形で走り、沿線の観光スポットをゆっくり、のんびり巡る旅には欠かせません。

チンチン電車の愛称で知られる阪堺電車は、ほぼ旧紀州街道に沿って歴史に育まれた堺のまちを走り抜けます。まちの風物詩として明治44年の開業以来約100年、スローで地球にやさしい市民の足としても親しまれています。
阪堺電車には2路線あり、堺市内を走るのは大阪市内から南北に延びる「阪堺線」。大阪市と堺市の境界大和川を越えてすぐの「大和川」から「浜寺駅前」までの14駅が堺市内区間です。市内中心部ではほぼ大道筋に沿うような形で走り、沿線の観光スポットをゆっくり、のんびり巡る旅には欠かせません。
阪堺電車(我孫子道~浜寺駅前間)および南海バス(指定エリア)が、1日に何度でも利用できる「堺おもてなしチケット」(大人500円/小児250円)などお得な切符があります。
「貸切電車」でチンチン電車を借り切っての車内パーティーは、他では得がたい体験となるでしょう。

また、大道筋の中央を走る「綾ノ町駅」と「御陵前駅」間では、線路両側の車道との分離帯に季節の花木が植えられています。”チンチン電車のお花畑”を車窓から眺めたり、沿道のまちあるきで楽しみながら沿線観光スポットをゆっくり、のんびり巡ってみてはいかがですか。

堺市に入ってすぐの駅・大和川

大和川は奈良県および大阪府を流れ、大阪湾に注ぐ一級水系の本流。

大阪市との市境である大和川が駅北方を西流し、同線では堺市の北端に位置している。

踏切の先は大和川橋梁となってます☆

 

 

近隣は駅の名の通り・大和川

奈良県桜井市の北東部、貝ヶ平山(かいがひらやま、標高822m)近辺を源流としており、上流部では初瀬川と称される。奈良盆地を西に向かって流れつつ、佐保川、曽我川、葛城川、高田川、竜田川、富雄川など盆地内の大半の河川を生駒山系の手前までに合わせる。生駒山系と葛城山系の間を抜けて、大阪平野にでると柏原市で南河内を流れてきた石川と合流してまっすぐ西へと流れ、大阪市と堺市の間で大阪湾に流れ込んでいる。

下流域は国土交通省(大和川河川事務所)の直轄管理となっているが、大和郡山市額田部南町・川西町大字吐田付近(奈良県浄化センターの南)より上流は奈良県(桜井土木事務所)管轄となる。管理境界地点の看板には下流は「大和川」、上流は「初瀬川」と記されており、この地点より上流が初瀬川と通称される。ただしあくまでも河川法上は源流まで大和川である。上流の橋の欄干や地図上では大和川と記されている。

奈良県から大阪府へ抜ける峡谷は、「亀の瀬」と呼ばれる地滑り多発地帯。同区間を走る関西本線(大和路線)や国道25号も過去に度々被害を受け、関西本線は路線を付け替えている。

また流域の奈良県などで下水道普及が遅れているなどの原因で水質の悪い一級河川の一つであり、2009年の調査では関東の綾瀬川に次いでワースト2位であった。 現在は以前と比べて水質が大幅に改善されており、2010年調査ではワースト3位まで改善して環境省の水質基準も満たしている。

浪速の名橋・50選 大和橋

大阪府大阪市住之江区と堺市堺区にまたがっている。 大和川に架かる紀州街道の橋であり、江戸時代は公儀橋、明治以降は国道の一部であったが、現在は大阪市道津守安立線の一部である。

  • 現在の橋は、昭和49年(1974年)3月竣工

架橋から明治維新まで

架橋地点はもともと地続きの紀州街道筋にあたるが、元禄16年(1703年)に大和川の付け替えが決定し、河内国志紀郡付近から北へ向かっていた川筋がまっすぐ西へ替えられた。街道分断地点の架橋工事は川の開削工事と平行して行われ、最初の橋は宝永元年(1704年)9月26日に通水に先だって開通した。

紀州街道は大坂と住吉大社・堺・岸和田・和歌山方面を結ぶ重要な道路であり、当初から公儀橋として江戸幕府が直接管理した。しかし、架橋から14年後の洪水で橋が破壊したとされるなど、幾度も破壊・流失と修繕を繰り返した。

当時大和橋を管理していた堺奉行の引継文書によると、元文元年(1736年)、寛保元年(1741年)、延享3年(1746年)、寛延3年(1750年)、宝暦6年(1756年)、明和3年(1766年)、安永5年(1776年)、天明6年(1786年)、寛政7年(1795年)、文化2年(1805年)と、およそ5 – 10年毎に大修復工事が10回も行われている。公儀橋であるため修繕費用は幕府の公金で賄うが、当時の幕府も財政が逼迫しており、修繕で本橋が通行できない場合の仮橋や渡し船の工面は民間に請け負わせ、その冥加金を工事費に充当したりしている。

その後、文政年間になると大和橋から北之橋(堺市街の北玄関)までの紀州街道沿いが並松町として堺市街に組み込まれた。

明治維新以降

幕末には補修さえもままならない状態であったとされ、明治2年(1869年)にようやく補修されたものの、抜本的な解決にはならず、大阪府と堺県は共同で掛け替え工事費用の国費充当を大蔵省に陳情し、明治6年(1873年)に掛け替え工事が実施された。この橋も木造であり、増水時に流失の危機に瀕している。

大正5年(1916年)になってようやく鉄橋化された。その後昭和14年(1939年)と昭和34年(1959年)に大規模な補修がされている。