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前の駅からわずか、、、400mの近さ神明町駅

周辺環境

これぞ、路面電車の距離ですね☆前の綾ノ町駅からわずか400mの近さ!

見えてます\(◎o◎)/

駅は、大道筋中央部に立地。単式ののりばが神明町交差点を挟んで斜向かいに配置されている。

浜寺駅前方面のりばが九間町東1丁に、恵美須町方面のりばが神明町東1丁に位置する。

通りの大道筋はその昔、、、

大坂の陣で灰燼に帰した後、元和の町割によって紀州街道が堺市街地における南北方向(縦筋)の基幹道路として整備され、東西方向(横筋)の基幹道路である「大小路」に対して「大道」と呼ばれたことに由来する。当時の道幅は4.5間で、土居川と呼ばれる環濠を渡る南北端にはそれぞれ「南之橋」「北之橋」が架けられ、高札場が設置されていた。大阪湾の海岸線に合わせる必要もあって、町割の当初から綾之町と錦之町の境界(現・綾之町交差点)で南から南西方向へ屈折している。文政年間には、環濠外となる大和橋 – 北之橋間も並松町として堺市街地に組み込まれた。

1872年(明治5年)には環濠内の市街地の町名が大道筋沿いの町名に統合され、東西ともに大道筋と同じ表筋沿いの両側町として「○○町東1丁」「○○町西1丁」といった具合に、大道筋に近いほうから1丁・2丁・・・となった。なお、大道筋沿いは以前と同じ町名・町域で、東西の別も丁界もなかった。

1945年(昭和20年)の堺大空襲で焼け野原となった後、戦災復興事業によって縦筋・横筋ともに防災に主眼を置いた幅員50mの大通りが計画され、縦筋では従来からの基幹道路である大道筋を拡幅することになった。その際、空襲による焼失を免れた綾之町以北は用地買収が困難で、拡幅区間は綾之町交差点以南に留まった。

また、環濠内は南北に細長い短冊形の街区であるため、大道筋と隣の筋を合わせる、すなわち2本の道路とその間の街区を束ねて1本の道路にする方法が取られることになった。その際、大道筋の東側は宿屋町以北において空襲による焼失を免れていたため、全焼状態にあった西側の街区を用地買収し、大道筋と西隣の西六間筋を合わせる形で拡幅された。大道筋(4.5間)、大道筋 – 西六間筋間の街区(21間)、西六間筋(2間)を合わせて27.5間、約50m幅の大通りが誕生し、1957年(昭和32年)に阪堺線の大通り中央への移設が完了して、ほぼ現在の姿となった。

以降、大道筋という名称は綾之町交差点以南の大通り区間を指すことが多いが、同交差点以北の旧来の4.5間幅区間(堺市道並松綾之西1号線)も大道筋であることに変わりはない。また、同交差点では、拡幅された大道筋が旧来の大道筋と西六間筋の2本の道路を使用していることがよく見て取れる。

1959年(昭和34年)には錦之町以南において、1969年(昭和44年)には綾之町以北において、それまでの両側町の丁界から道路を境界とする丁界に変更され、江戸時代から続いた大道筋沿いの町も大道筋を境に東西に分かれるようになった。

1989年(平成元年)に市制100周年記念事業の一環として、綾之町交差点以南の大通り区間に大道筋の道路愛称が堺市から与えられた。

地名の由来は???

古代に仁徳天皇陵をはじめとする百舌鳥古墳群が築造されるとともに、中世に海外交易の要衝として経済的、文化的に栄え、東洋のベニスとうたわれるなど、歴史的に名高い地域です。また、環濠都市の名残をとどめる、土居川や内川、社寺など豊富な文化的遺産を有しています。

神明町(しんめいちょう)の由来は、、、

奈良時代初め創建といわれる、神明神社(菅原神社に合祀)が当地にあったことに由来するといわれています。

周辺には色々あります・・・①覚応寺

覚応寺(かくおうじ)

正中山・覚応寺といい、伊予の豪族河野通元(こうのみちもと)が覚如(かくにょ)に帰依し、覚応と改名。当時の住職河野鉄南(こうのてつなん)は、文学仲間の与謝野晶子と鉄幹を引き合わせた人で、境内に与謝野晶子の歌碑があり、毎年5月29日晶子の命日に白桜忌(はくおうき)が開かれます。

周辺に色々あります・・・②本願寺堺別院(北の御坊)

市内最大の木造建築で「北の御坊」とも呼ばれ、現在の本堂は1825年の再建。明治4年の廃藩置県後10年間堺県庁として使用後、浄土真宗本願寺派へ返還され堺県庁跡として府指定の史跡となっています。

堺市内最大の木造建築で「北の御坊」とも呼ばれ、現在の本堂は文政8年(1825年)に再建されたもので、明治4年(1871年)の廃藩置県後から10年間堺県庁として使用されていました。明治維新当初の堺県は旧天領地だけでしたが、明治2~9年に河内県、丹南4県、奈良県などを合併して、近畿でも有数の大きな県になりました。広大な県域を有し独自の県政を行った堺県でしたが、政府の大阪府域拡大の方針で明治14年(1881年)に県域を府に併合され、その歴史に幕を降ろしました。堺県の廃止後、境内地と建物は浄土真宗本願寺派へ返還され現在に至っていますが、堺県庁跡として府指定の史跡となっています。
鐘楼に釣られた梵鐘は元和3年(1617年)の銘をもち、銘文によると慶長20年(1615年)の大坂夏の陣で焼失した念仏寺(開口神社の神宮寺)のために、堺の復興や新しい町割に努めた堺奉行が再鋳させたものです。明治初期の廃仏毀釈にともない堺別院に移されましたが、江戸時代はじめの堺復興の歴史を示す記念碑的な資料、年代の明らかな市内最古の梵鐘として貴重なもので、市指定の有形文化財となっています。兵火で焼亡した旧鐘を模したためか、造形的には中世鐘の形式を色濃く残すのが特徴です。

周辺に色々あります・・・③板状塔婆

十輪院内にある阿弥陀をあらわす梵字の陰刻、地蔵菩薩、為阿弥陀佛などの文字が刻まれた板碑。南北朝動乱期に流行した阿弥陀仏と地蔵菩薩を同体とする信仰の資料として貴重で府指定の有形文化財です。

板状塔婆は板碑(いたひ)と呼ばれ、山形の頂きを特徴としますが、この板碑はやや丸みを帯びて船の形に似ています。碑の中央には阿弥陀をあらわす梵字(ぼんじ)が陰刻され、その上には地蔵菩薩、下には明徳二年六月、為阿弥陀佛などの文字が刻まれています。碑の基礎部分は当初のものではなく後でつけられたものです。
明徳2年(1391年)は南北朝の動乱期にあたり、この板碑は当時流行した阿弥陀仏と地蔵菩薩とを同体とする信仰を示す資料として貴重なものといえます。昭和37年に府指定有形文化財になっています。