周辺環境
堺市・中心の駅、南海本線 堺駅と南海高野線 堺東駅との中間地点の間にそびえる大小路!
大道筋中央部に立地する併用軌道上の地上駅で、片側使用ののりばが大小路(堺警察署前)交差点を挟んで互い違いに配置されている。浜寺駅前方面のりばが熊野町東1丁に、恵美須町方面のりばが市之町東1丁に位置する。また、並行して堺駅と堺東駅のシャトルバスも走っております-------!!
五つの旧街道の一つ。大小路から榎元町、長曽根、野遠、竹内峠を越えて飛鳥に至る経路は政治・経済・外交の重要ルート、街道沿いには名所旧跡が点在し歴史の古道、古代人の夢を追うロマンの道といえます。
五つの旧街道の一つ、竹内街道は古代には丹比道(たじひどう)とも呼ばれ、その道筋は西の起点大小路から榎元町、長曽根、野遠(のとお)を経て、竹内峠を越えて飛鳥のみやこに至る経路で、政治・経済・外交の重要なルートとして利用されていました。
街道沿いには、古墳をはじめ金岡神社など多くの名所旧跡が点在し、まさに歴史の古道、古代人の夢を追うロマンの道といえます。金岡神社沿いの大道の土塀と白壁の家に面影をたどることができます。(市内延長8km)
堺に生まれ明治・大正・昭和を短歌とともに生きた「情熱の歌人」与謝野晶子。「みだれ髪」はその代表作、甲斐町の生家跡には「海こひし潮の遠鳴りかぞへつつ少女となりし父母の家」の歌碑があります。
与謝野晶子は菓子商駿河屋の三女として甲斐町に生まれてから、鉄幹に出会い家を出るまで堺ですごしました。明治・大正・昭和を短歌とともに生き「情熱の歌人」と呼ばれ、同じ文学者鉄幹の妻であり、11人の子どもたちの母でもありました。明治34年(1901年)に出版された「みだれ髪」は、鉄幹へのあふれる愛と青春のみずみずしさを歌いあげ、浪漫主義の代表作となりました。
また詩、評論、古典研究などさまざまな執筆活動を展開する一方、女性の権利に焦点をあてた評論も多く著し、当時の女性の地位向上に積極的に取り組んだことでも有名です。
その生家跡には「海こひし潮の遠鳴りかぞへつつ少女となりし父母の家」の歌碑があり、晶子と鉄幹を引き合わせたといわれる覚応寺、二人がはじめてデートした浜寺公園など、エピソードがつたわる地と晶子歌碑巡りを楽しむことができます。最近のリニューアルで生家の様子をビジュアルに表現、外国人観光客用に英語・中国語・ハングルの説明文も加えました。歌碑周辺の石組みは碑に刻まれている歌にちなみ、海の波をイメージして高低に配し、所々の青色タイルは光る水面を表現しています。
行基が念仏寺、空海が宝塔を境内に建てたことで「大寺」とも呼ばれる塩土老翁神、素盞嗚神、生国魂神を祀る旧市内唯一の式内社。大寺縁起絵巻、伏見天皇宸翰御歌集、短刀銘吉光は国指定の重要文化財です。
旧市内唯一の式内社で塩土老翁神(しおつちのおじのかみ)、素盞嗚神(すさのおのかみ)、生国魂神(いくたまのかみ)を祀っています。天平18年(746年)行基が境内に念仏寺を建立し、大同元年(806年)空海が宝塔を建てたので「大寺」とも呼ばれています。
元禄3年(1690年)制作された土佐光起筆の「大寺縁起絵巻」、鎌倉時代の仮名の名筆、和歌は京極派の詠み手として知られる伏見天皇の「伏見天皇宸翰御歌集(ふしみてんのうしんかんおんうたしゅう)」、社伝によれば室町幕府十代将軍義稙寄進の「短刀銘吉光(たんとうめいよしみつ)」は重要文化財です。また、「開口神社文書」は鎌倉時代から江戸時代の開口神社と大寺念仏寺関係の古文書で、府の有形文化財に指定されています。
市役所から南海本線堺駅までの1.5kmの堺のシンボルロード。広い歩道幅と噴水のモニュメントは市民のプロムナードとして親しまれ、10月の「堺まつり」では大パレード会場として賑わいます。
堺市役所から南海本線堺駅までの1.5kmを堺のシンボルロードとして計画・実施されたもので、電線を地下の共同溝に収納しています。歩道幅を広げ噴水のモニュメント「和の構造-1」、「和の構造-2」を設置し市民のプロムナードとして親しまれています。
また、10月の「堺まつり」では大パレード会場として賑わいます。