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堺の中心地を激走してます!!宿院

周辺環境

大道筋中央部に立地し、単式ののりばが宿院交差点を挟んで互い違いに配置されている。浜寺駅前方面のりばが宿院町東1丁に、恵美須町方面のりばが大町東1丁に位置する。

かつては宿院交差点南西側に定期券発売所があり、堺市における阪堺線の基幹駅であったが、現在は他の堺市内の駅と同格の扱いになっている。

2015年(平成27年)内に停留場の改修として、のりばの移設(浜寺駅前方面のりばを大町から宿院町へ、恵美須町方面のりばを宿院町から大町へ移設)、停留場拡幅、大浜線で結ばれていた大浜公園の「潮湯」の建物デザインを模した屋根の採用などが実施された

また、宿院という地名は室町期から見える町名で、当地にある、住吉大社の頓宮(お旅所)を宿院といったことに由来するといわれています。また一説に、昔、このあたりは寺社が多く、宿坊(宿院)がたくさんあったことに由来するともいわれています。

駅名の由来ともなった宿院頓宮

住吉大社の御旅所としての神社で文化13年(1816年)が始まり。後に大鳥大社の摂社も遷座、2柱の神様をお祀りしています。毎年7月31日に大鳥大社、8月1日に住吉大社からの御渡りと、飯匙堀での荒和大祓神事が行われます。

住吉大社の御旅所としての神社で、文化13年(1816年)が始まりとされています。後に大鳥大社の摂社も遷座され、それ以来2柱の神様をお祀りしています。毎年7月31日には大鳥大社からの御渡り、8月1日には住吉大社からの御渡りと、飯匙堀(いいがいぼり)での荒和大祓神事が行われます。
飯匙堀は海幸山幸の伝説により、潮干珠が埋められたところといわれ、どんなに雨が降っても水がたまらない不思議な場所とされています。

堺が生んだ2大著名人・・さかい利晶の杜

堺が生んだ茶の湯の大成者「千利休」と、日本近代文学を切り拓いた歌人「与謝野晶子」の生涯や人物像などを通じて、堺の歴史・文化の魅力を発信する文化観光施設です。

 千利休と茶の湯を歴史文化から解き明かす「千利休茶の湯館」、歌人与謝野晶子の作品世界とその生き方に触れる「与謝野晶子記念館」、堺観光の基点となる「観光案内展示室」などがあります。
千家茶道由来の地である千利休屋敷跡に面した「茶の湯体験施設」では、表千家・裏千家・武者小路千家のお点前により椅子席でお抹茶とお菓子を味わっていただく立礼呈茶や、茶道三千家の指導のもとお客様自身がお茶を点てる茶室お点前体験などを楽しんでいただけます。
また、千利休がつくった茶室で唯一現存する国宝の茶室「待庵」の創建当初の姿を復元した「さかい待庵」があり、外観の見学だけではなく、その室内まで入ることもできます。

千利休屋敷跡

堺で生まれわび茶を大成した千利休。天下一の茶匠として権勢を振るい茶道千家の始祖・茶聖と称されています。屋敷跡には椿の井戸と利休ゆかりの大徳寺山門の古い部材で建てられた井戸屋形があります。

千利休は大永2年(1522年)、堺今市町(現在の宿院西1丁)の豪商魚屋(ととや)の長男・与四郎として生まれました。17歳の時北向道陳に茶湯を学び、のちに武野紹?に師事しわび茶を大成させました。茶の湯をもって信長に接近し、その死後は秀吉の茶頭として仕えながら、北野の大茶会を取り仕切るなど天下一の茶匠として権勢を振るいましたが、小田原の役後秀吉の怒りにふれ自刃しました。現在の茶道千家の始祖であり「茶聖」と称せられています。
屋敷跡には椿の井戸が残っていますが、椿の炭を底に沈めていたといいます。井戸屋形は利休ゆかりの大徳寺山門の古い部材を用いて建てたものです。平成27年のリニューアル後は、敷地内も見学できるようになりました。

顕本寺

宝徳3年(1451年)、堺の豪商である、木屋と餝屋と称する者たちの自宅を法華堂としたのが始まりとされる。当初の寺は開口神社に近い甲斐町山ノロにあった。京都本能寺や尼崎本興寺を創建し、本門流を起こした日隆の流れにあって、南西国末寺頭と呼ばれる寺格を得ていた

戦国時代に入ると、室町幕府第12代将軍足利義晴を擁する管領細川高国に対抗し、大永7年(1527年)に細川晴元と三好元長が阿波から足利義維を迎え堺幕府(堺公方府)を樹立した(義維は堺公方または堺大樹と呼ばれた)。しかし、享禄4年(1531年)6月に高国を討ち取った(大物崩れ)後の晴元は、翌5年(1532年)6月に袂を分かった元長へ一向一揆を差し向けた。そのため当寺へ逃れた末に元長が自害に追い込まれると、後ろ盾を失った足利義維は阿波へ逃がされ、堺幕府は滅んだ。

元長の殉難地ということもあり、その後も三好氏一族との結びつきは続き、元長の息子三好長慶、実休らの軍勢が寄宿する免許を得たり、元長の二十五回忌の法要が行われた。