周辺環境
環濠に囲まれた堺市街地の南端に位置し、停留場の浜寺駅前方は土居川に架かる少林寺橋(もとは南之橋と言った)で、南詰が御陵前交差点、大道筋の南端である。駅名の由来である仁徳天皇陵へは当駅から東へ徒歩20分はかかるが、開業時は最寄駅であった(現在の最寄駅である百舌鳥駅は1929年開業)。また、駅名標には「南宗寺前」も併記されている。
戦国武将の三好長慶が父・元長の菩提を弔うため、弘治3年(1557)に大林宗套を開山として建立した南宗寺。臨済宗大徳寺派の寺院で、創建当時は壮大な寺院を造営し、著名な禅僧が来住して自由貿易都市として栄えた堺の町衆文化の発展に寄与しました。中でも、千利休の師である武野紹鷗は、大林宗套に参禅して「茶禅一味」の言葉をもらいわび茶を深め、千利休も第二世笑嶺和尚に参禅して禅に開眼。日常の俗世を離れて禅の修行に入ったような茶の湯の生活や、知識ではなく体で会得していく茶の湯の方法を確立し、茶人としての素養を深めました。
その南宗寺は、今も昔ながらの禅宗寺院の面影が色濃く残り、周囲を土塀で囲まれた静かな境内に佇めば、結界を超え仏の世界へ踏み入ったような感覚に。境内には千利休ごのみの茶室・実相庵が復元されており、利休忌にちなんだ茶会も催されます。
南宗寺の名物は、国の名勝庭園に指定されている枯山水庭園。方丈の縁側に座し、古田織部ごのみの前庭を眺めれば、シンプルながら奥深いわびさびの世界がやさしく語りかけてきます。その方丈庭横には地中に設置した水禽窟の音を竹筒で聞けるコーナーもあり、日本人の繊細な感性に響きかけるしつらえが。時の移り変わりによって変化する寺の風情に心癒されます。
南宗寺は大坂夏の陣でことごとく焼失しましたが、その再興に尽力したのが、当時の沢庵和尚。俗論に沢庵漬けの考案者と言われる和尚です。沢庵和尚が現在地に再建を果たした後、17世紀中頃には国の重要文化財に指定されている仏殿、甘露門(山門)、唐門が整備されました。その仏殿の天井一面には、どこから見ても睨んでいるように見えることからその名の付いた「八方睨みの龍」が描かれ、迫力たっぷり。権力者や寺院の御用絵師として隆盛を誇った狩野信政筆で、昼なお薄暗い仏殿の中にはまさに龍が棲んでいるかのような錯覚に陥ります。
「大坂夏の陣の時、真田幸村の奇襲を受けて輿にのって逃げ出した家康。しかし大坂方の猛将・後藤又兵衛は怪しいと睨んで槍でついた。家康はそのまま南宗寺で絶命。しかし死去はふせられ、家康の影武者が活躍。家康の遺体はひそかに日光東照宮へ運ばれ葬られたという」こんな伝説がまことしやかにささやかれる南宗寺。二代将軍・秀忠、三代将軍・家光が相次いで寺を参詣したのも、実は家康の死が起因しているとの説が伝えられています。
それを裏付けるように、境内には徳川家康の墓があり、瓦には徳川家の「葵」の紋が。歴史の意外なミステリーに興味をそそられます。このほか境内には、三好家一門の墓、千家一門の碑、武野紹鷗の碑など著名人の墓が多くあり、堺の豪商や文化人、武将に愛された寺の風格を感じます
室町初期に徳秀士蔭が開祖した臨済宗東福寺派寺院。納屋助左衛門等の居宅を移したとされる書院造りの部屋もある総檜造りの本堂と、17世紀前半の狩野派の作といわれる内部の障壁画は重要文化財です。
室町時代の初期応永年間(1394~1428年)、徳秀士蔭(とくしゅうしいん)が開祖した臨済宗東福寺派の寺院で、二町四方の寺域を持つ大寺院であったと伝えられています。室町時代の歌人・牡丹花肖柏の供養墓や、利休好みの名品「虹の手水鉢」など堺の文化の深さを物語る品々も残され、中でも本堂内部4室にわたって描かれた障壁画は圧巻です。この障壁画は17世紀前半の狩野派の作と伝えられ、金地に様々な鶴、松、藤などの図案が描かれています。
本堂は書院造りの部屋もある総檜造りで、豪商納屋助左衛門等の居宅を移したものとの言い伝えもあります。本堂は普通禅寺では「方丈」と呼ばれており、お寺の本堂というよりもむしろ住宅風の間取りやつくりとなっています。この建物と内部の障壁画は重要文化財に指定されています。
1332年創建の臨済宗東福寺派寺院、夏の陣で焼失後再建された本堂・庫裏・門廊は国の重要文化財。本堂と庫裏が一棟の建物は江戸初期の寺院建築では珍しく大変貴重です。
元弘2年(1332年)に創建された臨済宗東福寺派の寺院で、大坂夏の陣(1615年)で伽藍が焼失したため、開口神社付近から現在地に移転し再建されました。山門をくぐると正門に門廊が、そして左側には本堂と庫裏があります。本堂、庫裏及び門廊は国の重要文化財に指定されています。
本堂の内部は一室で仏間にかかる虹梁(こうりょう)の彫刻や蟇股(かえるまた)の形は、17世紀初め頃の特徴をよく表しています。本堂に続く庫裏は広い土間と畳の部屋が「田の字」型に並ぶ間取りで、土間は吹き抜けで大きな梁がかかり力強い空間構成です。畳の部屋は一間ごとに柱が立つという古い建築工法が用いられています。本堂と庫裏が一棟の建物というのは江戸時代の初めの寺院建築としては珍しく大変貴重です。
また、「牡丹花詩集」(ぼたんかししゅう)は海会寺の開祖、乾峯士曇(けんぽうしどん)をはじめ33人の禅僧が「牡丹」の題で作った漢詩を集めたもので、乾峯自身が文和5年(1356年)にその序文を書きました。序文は乾峯の筆の特徴、書かれた年代などがはっきりしており、わが国の書道史・文学史において貴重な作品で、市の指定有形文化財になっています。