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明治45年4月1日に開業。2級河川の石津川手前の駅となってます。
石津川は長さ13kmの2級河川です。大阪府堺市南区の大正池・天濃池にそれぞれ源を発する法道寺川・明正川合流点付近から、堺市内を北流。西区の石津漁港(堺泉北港)で大阪湾に注ぐ。 本河川流域は堺市内に限定される。大阪湾手前の河口には、葦舟に乗った蛭子命(戎大神)が漂着したと伝えられる場所があり、現在は石津太神社の御旅所として祀られている。
日本最古の戎宮・創設は第五代孝明天皇七年(紀元前469年)と伝えられています
石津神社は延喜式(平安時代西暦927年)神名帖に見られ、寛保2年古文書に「住古、事代主神(戎神)が此の地に五色の石を携え降臨、以来ここを石津と名づく」とある。住時より「夏越大祓」は6月23日に「茅輪くぐり神事」とともに行われる。
また、秋祭りには「だんじり」「ふとん太鼓」の双方が宮入する
17世紀中頃に建てられたという本殿2殿、馬道が二つある拝殿、市内最古のひとつ一の鳥居、二の鳥居は市指定有形文化財。都市部の緑豊かな歴史的空間で、12月の火渡りの神事「やっさいほっさい」が有名です。
北本殿・南本殿・拝殿・一の鳥居・二の鳥居は堺市指定有形文化財で、本殿は屋根のかたちを流造(ながれづくり)、春日造(かすがづくり)と違えていますが、破風(はふ)などで装飾をおこない正面から見ると全く同じ形としていることが大変特徴的です。17世紀の中頃に建てられたと考えられ、同時代の本殿が2殿とも現存し拝殿は馬道(めどう)という通路が二つある珍しいものです。
一の鳥居は石造の鳥居で寛永19年(1642年)の銘文が柱に刻まれていることから建てられた年代がわかり、市内で最も古い鳥居のひとつといえます。二の鳥居にも銘文があり、神社境内の変遷や建設に関わった人々を知ることができます。本殿・拝殿・鳥居という江戸時代の神社境内の構成要素がよく残り、都市部の中では緑豊かな歴史的な空間として貴重です。
12月14日には108束の薪を神前で焚き、火渡りの神事「やっさいほっさい」が行われますが、薪の燃え残りを家に持ち帰ると厄除けのまじないになるといわれています。
石津の戦いとは、南北朝時代の延元3年/暦応元年5月22日(1338年6月10日)に和泉国堺浦・石津(現在の大阪府堺市一帯)において、南朝方の北畠顕家と北朝方の高師直が戦った合戦。石津合戦・堺浦合戦・堺浜合戦などの異名がある。その時に敗れた武将のお墓がこの石津にあります。
北畠顕家の墓は大阪市阿倍野区にもあるが、彼の父の北畠親房が著した「神皇正統記」などには顕家は1338年(延元3年)5月22日朝、1万8千の高師直軍と戦い、この摂津国石津で戦死し、21歳の若い生涯を終えたと伝えている。
阿倍野に在る顕家の墓は江戸時代の国学者並河誠所が政治的な動きで、北畠顕家の墳墓と比定したが、この石津川の墓は1936年(昭和12年)顕家公600回忌に当り、追福のため、町の有志が五輪塔を建て、供養としている。
この墓地の前の道はかっての幹線道路である紀州街道であるが、現在では国道26号線や高速湾岸線にその座を明け渡しており、現在は車の交通量も比較的少なく、逆にお墓にとってはこのことが幸いしているようだ。