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助松団地の最寄駅として造られた・北助松駅

南海本線

沿線東側に建設が進められた公団助松団地の最寄り駅として、昭和32年(1957)12月に開業しました。駅名に「北」が付けられているのは、開業当時、隣接する松ノ浜駅が「助松」という駅名であったためです。駅のすぐ北西側にある「助松神社」は、8世紀中頃の称徳天皇の時代に創建されたものといわれています。さらに海岸寄りには、野球場や交通遊園、プールなどの施設を持つ「助松公園」があり、緑豊かな市民の憩いの場となっています。

すぐ西側は助松神社

駅の改札を出ると踏切の西に派出所がありますが、その隣です。分かりやすさではトップクラスでしょう。

境内は広いんですが、梅鉢が散見する訳でも1100年大祭の幟が立っている訳でもなく、説明版もない。あまりの普通ぶりに、思わず絵馬の神紋を確認してしまいました。
そのわりに意外だったのは、手水が流れていたこととおみくじが業者製ではない(らしい)こと、そして毎月25日の月次祭の掲示が出ていたことですね。よくある地元の神社としては結構きちんとしてます。

金比羅さんに八幡さんにえべっさんと、境内の末社を見ているうちは何の違和感もなかったんですが、ただ一つ天神社にしては非常に珍しいものが。鶏、です。
夜明けを告げる鶏の声にせき立てられて道真は大宰府へ旅立った、だから天神社の氏子は鶏を飼わない、という話は各地に伝わっていますが、有名なのは「菅原伝授手習鑑」の東天紅とうてんこうでしょう。

大規模な団地があります!助松団地

昭和48年2月1日住居表示実施により、森・千原の一部を町名とした。昭和36年森、千原、富秋の一部に「日本住宅公団助松団地」として面積9万平方メートル56棟、1,509戸の大規模団地が田園地帯に誕生した。この団地は、昭和27年より北助松駅を誘致する中、住宅建設用地の地元斡旋により実現したもので、北助松駅は昭和32年12月開業し、団地までの拡幅道路に北助松商店街を形成していく。

昭和34年7月当時の信太村と団地内の飛地統合に伴う境界変更を実施し、助松団地の東側12棟は、和泉市富秋町の飛地となっている。

歴史的建物あります☆

元亀年間(1570年ごろ)田中遠江守の陣屋跡、敷地は南北2丁東西1丁ある。紀州街道沿いに、ここだけタイムスリップしたかのごとく、この一画がある。紀州の殿様が参勤交代のおりの、専用宿泊所。建物の基礎は元亀年間に建築された、非公開のために内部を伺うことは出来ない。これもどちらかといえば、古城の部類には入らないかも。陣屋より南200mにある木々の繁った「牛滝塚」は天正四年七月十五日、木津川で毛利勢と戦い陣没した田中遠江守重景の遺骸を葬った塚である

田中家は、その祖は清和源氏より出た南朝の重臣新田氏と同族で、元亀年間(1570~73)田中遠江守重景が助松村に移住したのが始めとされる。江戸時代には、大庄屋を勤め、紀州藩主参勤交代の際、休息所に充てられていた。屋敷は、旧紀州街道に沿い約一町四方で、建物は主屋が東向き正面で、南脇に長屋門をおき、土蔵・納屋等を配し、江戸時代の豪農であったことを窺わせる。主屋の創建は十七世紀初頭を降らぬかと考えられるが、延宝七年(1679)と慶応三年(1867)の修築以外にも何度か改造されている。しかし全体的に江戸時代前期の頃の規模や形式をよく残している。なお延宝七年の修理については、元禄四年(1691)に画かれた田中覚旧家屋補絵図の主屋に書き込みがあり、元禄の年号の入った古図は民家では甚だめずらしく、最も古い例とされる。主屋で古い部分は、現在の土間の北端と土間から北へニ並び目の八畳・六畳・六畳の三室である。屋根は茅葺であったのを本瓦葺に替えられている。庭は、大和郡山小泉藩家老職で、石州流茶人として知られている藤林宗源の作になり、石灯籠は宗源より贈られた片桐且元遺愛のものである。備窮倉は、寛政年間(1789~1801)、清水中納言領のとき、凶年にそなえ設けられた八ヶ村の貯穀倉で、現在のものは安政年間(1854~60)に建てられたものである。この他、近世の地域史を知る上で貴重な「田中家文書}や、紀州候より拝領の品々が多数残されている。 

牛滝塚

田中家累代の墓所である。東西約三○m、南北約四○mのほぼ方形を呈し、樹木が茂り、周囲には幅約五mの堀をめぐらせ、一見古墳のような外観を示している。天正四年(1576)、織田信長が大坂石山本願寺攻めの時、田中遠江守重景は織田方に荷担し、毛利勢と堺で戦い陣没、牛滝塚に葬られた。塚内には、和泉三十三所霊場弟十五番札所海蔵寺の跡があるが、「もと塚よりも東方にありて近江国大津禅宗青龍寺末の巨刹なりしが後、田中覚右衛門重之此の牛滝塚に再建(「大阪府全志」)したとされ、明治維新の際に廃寺となった。墓地内に古様式の宝篋印塔がある。(泉大津の史跡と文化財より)

(泉大津の史跡と文化財より)

駅の東側は北助松商店街

南海本線北助松駅から東へ600mの一本筋の商店街です。

地域住民に必要とされる魅力ある商店街とは何かを考え、

21世紀感動を与える商店街が生き残れるをコンセプトに、事業展開しております。

平成16年度には、街路灯整備を充実させ、明るく環境に優しい街づくりを目指して組合一員丸となってます。

毎年10月には秋祭りが実施され、連絡パレードでは地車のやり回しで多くのお客様で賑わいます。

名前の由来は??

助松村は、江戸期~明治の村名。明治22年合併、上条村の大字となる。昭和6年大津町の大字、昭和17年泉大津市の大字となる。明治8年戸数182戸、人口879人。

本地は、古来和泉郡に属し、もと上条郷にあり助松村と称する。応永3(1396)年の史料には「助松三郎左衛門尉正家」、応永7(1400)年、高野山文書にすでに助松が金剛峰寺宝生院領であったことが散見できる。

地内字蓮正寺に浄土真宗大谷派の蓮正寺がある。かつて「茅淳御坊」「助松御坊」とも呼ばれ、天文11(1542)年三好長円の開基といわれ、阿波三好宗三の長男で幼名を「助松丸」と称した。長円は本願寺証如に帰依し、のち助松浜の地10町歩余を開墾し寺を創建、やがて周辺に村をなすに至ったといわれる。寺院は、浄土宗専称寺のほか浄土真宗本願寺派光秀寺、禅宗海蔵寺があった。海蔵寺は、和泉33ヶ所15番札所の寺院であったが、のち田中氏累代の墳墓牛滝塚域内に再建されるが明治に入り廃寺となる。神社は、助松神社と八幡神社(明治43年助松神社に合祀)がある。