南海本線
大正3年(1914)10月に開業しました。駅の東側には、かつて「春木競馬場」がありましたが、地元の要望もあり昭和49年(1974)に廃止となりました。その跡地に造られた「中央公園」は、テニスコート、プール、トラック競技場などのスポーツ施設が充実しています。大阪府下唯一の競輪場である「岸和田競輪場」は昭和25年(1950)2月、全国で22番目の競輪場として開設。観客収容人員約45000人のマンモススタンドを持ち、現在はおおむね月2回、6日間の割合で競輪を開催しています。
長崎屋を核とする春木駅周辺の大型ショッピングセンターです☆
グルメ・食料品の買い物は勿論のこと、100円ショップや花屋、バラエティーなど多くの買い物ができ
スポーツクラブやボーリング場・カラオケなど、ご家族そろって一日過ごせる場所ですね☆
また、2階にはMEGAドンキホーテがあり、小さなお子様から大人の方までいろんなバラエティーグッツなども多く取り揃えてますね(●^o^●)
45000人収容のマンモススタンドです!!クセのない走りやすいバンクで直線も比較的長いため、脚質による有利不利は少ない。なお海岸に近い平地にあることから、1センター側から海風が吹く影響がある。
記念競輪 (GIII) は『岸和田キング争覇戦』が開催されており、近年まで毎年11月の開催が恒例となっていたが、時期移動により2009年度からは3月に開催され、2011年3月の記念開催は東日本大震災の影響により中止となったが、4月16日より同じく中止になった川崎記念の日程と出場選手を振り替える形で被災地支援競輪として『がんばろう日本GIII in 岸和田』が開催されている。なお2012年は10月に、2014年は11月と12月にまたいて開催された。
近年は積極的にGI競走を開催しており、2000年以降では2002年・2005年に全日本選抜競輪、2009年は3月に日本選手権競輪と同年5月にSSシリーズ風光るの第1回、2011年に全日本選抜競輪、2013年・2015年・2017年に高松宮記念杯競輪が開催された。また、2014年には西日本初となるKEIRINグランプリが開催された。今後は2018年6月14日から17日と2019年6月13日から16日に再び高松宮記念杯競輪が開催される予定となり、2017年から3年連続での宮杯開催となった。
選手宿舎は敷地内ではなく、やや離れた場所に設置しているため、宿舎と競輪場間の移動はバスで行われている。
イメージキャラクターはライオンの『チャリオン』で、それにちなんで『チャリオンカップ争奪戦』が開催されている。また現役時代に関西のドンとして日本選手権競輪やオールスター競輪などを制した石田雄彦を称えた『石田雄彦杯』と、現役時代から「ヤマセイ」と呼ばれ中野浩一より前に「ミスター競輪」とも評されていたほどの強豪であった山本清治を称えた『ヤマセイ杯』が、それぞれ開催されている。
2004年7月17日からは場内およびインターネットで岸和田BBスタジオを放送しており、岸和田だけに限らず他場のグレードレースでも映像を配信したことからファンの高い支持を得ていたが、2010年11月より本場開催の映像音声のみの配信に変更された。また2005年4月から2010年3月まではサンテレビジョンで『まいど!火曜日はKEIRIN』を放映し、岸和田競輪の中継や関連情報を紹介していた。
岸和田市北部の春木地区(旧 泉南郡春木町大字春木の大半および大字磯上に該当)、南海本線春木駅の周辺で行われる。岸和田だんじり祭と同日開催してます。
古くは春木北と春木南の2台のだんじりによる「追いあい」が醍醐味の祭であったが、昭和20年代に春木北が曳行を断念、春木南が、岸和田地区(岸和田地車祭礼年番)中心の曳行に移行したため、一時期衰退が見られた。しかし、その後だんじりを所有する町会が続々と増え、現在では12台のだんじりが見られる(現在、春木南は春木地区を脱退している)。運営に関しては春木地車祭礼年番を筆頭に、祭礼町会連合会、曳行責任者協議会、若頭責任者会、若頭連絡協議会、後梃子連合協議会などが組織されている。
岸和田の人にとってだんじりは「街の華」である。だんじり祭の主役はもちろん参加するすべての人達だが、その中心にはいつもだんじりがある。 だんじりは総欅造り(黒檀等を装飾的に用いることもある)であり、形態は各地方ごとにその発祥や発展の過程が異なるために「岸和田型」「大阪型」「堺型」「神戸型」など様々な形態に分けられる。そのうち「岸和田型」を「下だんじり」、他地域のだんじりを総称して「上だんじり」と呼ばれる。春木だんじり祭では、祭に参加している全町「下だんじり」という形態のだんじりである
春木だんじり祭では全国各地の祭礼において、その山車、屋台が曲がり角を慎重に方向転換するのではなく、勢いよく走りながら直角に向きをかえる。言葉では簡単だが、重さ四トンを超えるだんじりを走りながら操作するのは容易ではない。だんじりを前へ前へと曳く青年団、旋回のきっかけをつくる前梃子、舵取り役の後梃子、後梃子に合図を送る大工方、それぞれのタイミングを合わせるのが難しく腕の見せどころである。速く、正確に「やりまわし」を行うには、それぞれの持ち場を受け持つ各団体の息が合うことが重要となる。
1日目は午前6時から7時30分周回コースを「曳き出し」という名で幕を開ける。その後、午前9時から春木ラパーク前においてパレードが行われる。 2日目は午前9時から午後12時弥栄神社で「宮入り」が行われる。その後午後1時から午後5時まで曳行コースを周回する。 2日とも岸和田だんじり祭と同様のように、午後7時から10時頃までの間は「灯入れ曳行」(ひいれえいこう)が行われる。暗闇の中を赤い駒提灯に照らされただんじりが動く姿は美しく、何とも言えない。また、昼間の激しいやりまわしの風景とは一変し、小さい子供から年寄りまでの幅広い年齢層の人達が、だんじりを近くで見ることができ、楽しむことができる。
高さ約4m、幅約3mの歌碑には「泉州春木港」の歌詞のほか、スクリューやカモメなどがデザインしてあります。同歌の発売10周年を記念して、平成15年4月20日に建てられました。
歌の発表から約10年の時を経てできた歌碑は、カモメをイメージした屋根、歌詞を刻んだ船のスクリューと独特の形状。国内歌手最多である12個の歌碑を持つ鳥羽の、9個目となるもの。地元が誇りに思い、鳥羽本人も「特別な思いがある」という理由は、歌ができた経緯にある。
平成元年。当時現役の漁師の岡さんは、海で多くの仲間を亡くした元漁師の鳥羽が昭和63年から「海難遺児チャリティー・港町コンサート」を開いていると知った。「春木にも来てほしいと思った」。方々に電話をして連絡先を探し、大分で公演することを知り、車を飛ばして会いに行った。
父は漁師、母は海女である鳥羽は、自身も遠洋漁船の船員として5年間、マグロやカツオを追った。同じ“海の男”同士、熱い思いが通じ合い、同年、春木漁港でコンサートを開催。集まった地元の約5千人を前に、鳥羽は「いつか春木の歌を歌う」と宣言。4年後、約束は果たされた。
新曲発表会もこの港で行った。天保山(大阪市港区)から船で向かった鳥羽を、何百隻もの船が大漁旗を掲げて出迎えた。鳥羽は「初めての経験。感動して鳥肌が立った。だんじり祭りの土地ですし、彼らは本当に熱い。意気に感じたら何でもやってくれる」。以来、交流は続き、「大阪に来たら、必ずみんなと一杯飲む」という。
漁師たちには、地元の歌ができたことに加え、別の喜びもあった。「われわれの応援歌やと思って、うれしかった。鳥羽さんの歌声が励みになった」と岡さん。この歌の発売は平成4年。地元の漁師たちは関西国際空港の開港(6年)に向けて、揺れていた。泉州沖の人工島に作る空港。それは漁師にとって、漁場の一部を失うことを意味していた。
鳥羽に頼まれ、迷わず詞を書いたもず唱平は当時を振り返る。「書く前に春木漁港を取材。会った漁師約30人のうち、半分がやめると言いました。補償金で転業する人も…」。老舗漁港の危機。そこで、作曲を快諾した鳥羽の師匠の船村徹に連絡をし、冒頭を跡継ぎがないことを嘆く歌詞に書き換えた。「春木のように、地域社会が生きた現場は、私に歌作りの基本を学ばせてくれました」
そして今。春木漁港は、約1800人の漁師を抱え、変わらず船が行き来する。「魚種を変えて頑張ってます。メーンはシラス漁」と岡さん。稚魚の放流、地元の中学生の体験学習も受け入れている。「不況でおか(陸)の仕事が少ないからか、最近は若い子や他府県からの人が増えた。われわれの仕事も厳しいが、生活はしていける。漁師は、海ある限り漁師や」
正午の時報代わりに、今日も港に「泉州春木港」が流れる。熱い男たちのきずなは、永遠につながれる