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全国でも珍しい駅舎は岸和田駅

南海本線

南海鉄道当時の明治30年(1897)10月に開業しました。駅の高架化(南海本線岸和田市内連続立体交差工事)は昭和62年(1987)10月に着工。駅の上に駐車場をつくるという、全国でも例のない駅部一体整備型連続立体交差事業として進められ、平成4年(1992)5月に上り線、2年後の7月に下り線が完成しました。約300年の歴史と伝統を誇る「岸和田だんじり祭」は、岸和田藩主・岡部長泰が五穀豊穣を祈願して行った稲荷祭がその始まりと伝えられています。滝と紅葉の名所・牛滝山へは駅前からバスに乗車。11月に「もみじまつり」が行われます。

現在の駅舎は3代目。先代は昭和初期に建てられたもので、半円型のステンドグラスが特徴的な洋風の駅舎だったが、現駅舎にも2代目駅舎をイメージしたステンドグラスや半円型のガラス窓などが施されている。

1階に改札、2階にホームがある。改札口は中央口と和歌山市駅寄りの南口があり、両口とも団体専用口を備えている。1・4番線が待避線で2・3番線が本線となっている。 中央口に改札とホームを結ぶエスカレータ・エレベータ、南口に同じくエスカレータが設置される。

 

日本最大 怒涛の狂宴! 「岸和田だんじり祭り」

岸和田市北西部、岸和田城下およびその周辺(旧市と呼ばれる地域)で毎年9月に行われる。

1745年(延享2年)に、北町の茶屋新右衛門が大坂の祭を見聞し、牛頭天王社(現・岸城神社)の祭(旧暦6月13日)に献灯提灯を掲げたいと藩主に願い出て許可されたのが始まりである。また、1703年(元禄16年)、当時の岸和田藩主であった岡部長泰が伏見稲荷大社を岸和田城三の丸に勧請し(→三の丸神社)、五穀豊穣を祈願して行った稲荷祭を始まりとする説がある。岸城神社では、疫病退散の祭として町方の人々が始めたのが起源としている

速度に乗っただんじりを方向転換させる「やりまわし」が醍醐味で、曳行コースの曲がり角は大勢の観客であふれる。また、だんじりに施された非常に精緻な彫刻も見所で、休憩時などの停止中に申し出れば見物を許可してくれることもある。

もとは関西の一地方の祭であったが、昭和の終わり頃から多くのメディアで紹介されるようになり、一気に全国区の祭となった。近年、だんじりを所有する町会がさらに増加しており、規模が拡大しつつある。同日開催の春木だんじり祭と合わせて南北3.5km、東西1kmの範囲で交通規制が敷かれる。これは南海本線春木駅-蛸地蔵駅間の4駅全てが含まれる規模である。2009年度の観客数は2日間で56万人であった。

また、資料館もできました☆

岸和田駅南口から徒歩・約15分のところにございます。

江戸時代中期に始まり、約300年の伝統がある、ダイナミックな岸和田だんじり祭の歴史や祭りの映像など、だんじり祭が年中体感できる施設として、1993年にオープンしました。実物のだんじりが展示されているイベント広場では、大型マルチビジョンによる映像で祭の迫力をリアルに紹介しています。その他、紀州街道の町並みを再現したコーナーやだんじり大工と彫物師の匠を紹介する映像ライブラリー、だんじりの大屋根に乗る体験ができる体験コーナーなど、見どころ満載の施設です。

岸和田の由来となったお城です!岸和田城

建武元年(1334)楠正成の一族和田氏が、当時「岸」と呼ばれていたこの地に城を築き、根拠地としたことから「岸の和田氏」と呼ばれ、「岸和田」の地名の起こりになったといわれています。

その後、信濃氏、細川氏、三好氏、松浦氏、中村氏、小出氏、松平氏とかわり、寛永17年(1640)岡部宣勝が入城、以来13代続き明治を迎えました。
大正11年11月1日、大阪市、堺市に次いで府下で3番目に市制を施行し、今日に至っています。

ちきり城の名の由来は

岸和田城の別称は「猪伏山(いぶせやま)ちきり城」。「ちきり」とは、機(はた)のたて糸をまく器具で、本丸と二の丸を重ねた形が「ちきり」に似ているところから由来するといわれています。
また、ちきり城は「千亀利城」「蟄亀利城」とも書かれます。
現在の天守閣は、工事費2264万円を費やして、内部を図書館として活用する目的で昭和29年11月に竣工しました。外観は三層の天守閣と二層の小天守閣となっています。
天守閣の高さは、石垣の高さ約5メートル、石垣上部から鯱(しゃち)を含めた高さが約22メートルです。
昔の絵図に、五層の時の天守閣の高さは、石垣上部から18間(約32.4メートル)と記されているものがあります。

紀州藩のお目付役

岡部宣勝(のぶかつ)が、岸和田城に入城したのは、紀州の徳川頼宣(よりのぶ)に異心があるとして、そのおさえのためだったといわれています。
ある時、江戸城で、二人が出会った際、頼宣に「君が和泉に居(お)られるのは、我らのおさえのためだと聞き及んでいるが・・・」と問われたので、宣勝は「大身(たいしん)のあなたをおさえるなど、とんでもないことです。せいぜい足の裏に飯粒が付いたくらいのことでしょう」と答えたという。
足の裏についた飯粒は、気持ちが悪いものです。宣勝は、岸和田藩を飯粒にたとえながらも、小藩の意地を通したものでしょう。これを聞いた頼宣は、唖然(あぜん)としたと伝えられています。

鯱(しゃち)にも「阿形」と「うん形」

岸和田城の天守にそびえる鯱(しゃち)は、山門の仁王や神社の社殿前に置かれている狛(こま)犬と同様に、口を開けた「阿(あ)形」と、口を閉じた「うん形」の一対です。「阿形」は南側の鯱で、高さ約1.7メートル、「うん形」は北側約1.6メートルです。

二の丸から西は海の中

山名氏が家臣の信濃氏を岸和田に入れたころ、城は今の二の丸のところでした。当時、二の丸は、海につき出た小高い丘で近くまで潮が差し入っていました。
「古今重宝記」には、松平康重時代に「其以前ハ二之丸石垣迄汐(しお)差入リ芦原ノ所、段々ト海退ニ付、当時ノ伝馬口ヨリ坂口御門迄新郭出来、町家等建候由、夫(それ)迄ハ南大手ヨリ東大手ヘ往環之所、当時ノ通リ往来ニ相成候」と書かれています。
このように、元和9年には紀州街道が整備され、また、堺口門、内町門、伝馬口門が造られ、城の表玄関は北大手門(今の市役所別館の入口付近)とされました。
その後、さらに海岸線が退き、岸和田浜町も整備されていきました。

めずらしい犬走り石垣

五風荘と岸和田高校側の本丸の石垣の下に、さらに、犬走り石垣といわれる周堤帯があります。これは、正保の城絵図にすでに描かれています。
軍事的な意味から考えると、本丸への敵の侵略に拠点を与えるということから矛盾した造りで、他の城では、ほとんど見られないものです。
では、なぜ造られたのでしょうか。それは、上部の石垣が壊れ易いので、補強するために造られたものと考えられています。

戦時には寺を陣屋に

城の周辺には多くの寺があります。東に光摂庵(こうしょうあん)、十輪寺、西に天性(てんしょう)寺、梅渓(ばいけい)寺、高天(たかま)寺、光明寺、心蓮(しんれん)寺、北に正覚(しょうかく)寺、観蔵(かんぞう)院、薬師院、本徳寺、本昌寺、円教寺、妙法寺、西方(さいほう)寺、浄円寺などです。 また、下野町の紀州街道沿いの山手側、春木川べりに岸和田墓地と加守墓地があります。
このように、城の周辺に寺院を多く配置しているのは、軍事的な意図があるようです。いざ戦いのときには、寺を陣屋にしたり、また、墓石を盾の代用にと考えていたのでしょう。

大人も子供も楽しみながら学べる資料館☆岸和田自然資料館

岸和田の大地のおいたちや身近な自然について紹介する博物館です。岸和田で発見された「キシワダワニ」の化石をはじめとする展示が並び、「発見BOX」や「発表コーナー」など実際に入館者が野外で見つけた資料や、自然科学について研究した成果などをリアルタイムで見ることができるコーナーもあります。また、様々な野外での観察を行うフィールドセミナーや講演会なども主催しています

もみじの名勝牛滝山として知られる牛滝山大威徳寺

もみじの名勝牛滝山として知られる山岳寺院。現在は天台宗ですが、近世以前は真言・天台兼学寺院でした。役行者の開創と伝えられ、古来、葛城修験の一霊場として崇敬されました。境内にたつ多宝塔(室町時代)は国の重要文化財に指定されています。

修験道の開祖役行者(役小角)が牛滝山に開いたと伝承される山岳寺院で、古来、葛城修験道の霊場として尊崇を集めてきた。

寺号は、比叡山の学僧であった恵亮が、境内にある「三の滝」での修行中に滝の中から牛に乗った大威徳明王が現れたのを見、その姿を彫って本尊として祀ったことが由来とされる(大威徳明王像は通例、水牛の背に騎乗した姿で造像される)。

空海も当山で修行をし、多宝塔などを建立したと伝える。多宝塔は室町時代に再建された後、戦国時代の兵火を潜り抜けて、現在に伝わっている。近世までは真言宗と天台宗の兼学寺院であった。かつては多くの子院を有し、真言系の本坊と、恵亮の流れを汲む天台系の穀屋坊との間で開基をめぐる争いもあったが、明治45年(1912年)に至り本坊も天台宗となった。

  • 多宝塔 – 国の重要文化財 ・境内 – 大阪府指定名勝 ・楓 – 岸和田市指定天然記念物となってます☆