南海本線
大正3年(1914)4月に開業しました。駅名にもなっている「蛸地蔵」は、駅から西へ約500メートルに位置する「天性寺」の通称。かつて岸和田城に一揆が襲来したときに1人の大法師(地蔵尊の化身)と数千の蛸が城の危機を救ったことから、この寺に地蔵尊を安置したと伝えられており、西駅舎の天窓にはこの「蛸地蔵物語」が描かれたステンドグラスがはめ込まれています。
この、ステンドグラスを持つ駅舎はとても人気があるので、是非見に行ってはいかがでしょうか(#^.^#)
創建は元亀元年(1570年)と言われているが、天保年間の火災で、記録をすべて失ってしまい詳細は不明。しかし、『増上寺史料集』第五巻所収『浄土宗寺院史』「泉州寺院開山帳 岸和田組」には、寛永2年(1625年)に得譽上人が建立し、以後、寛文13年(1673年)までの48年間、住職をつとめたとしている。『天性寺聖地蔵尊縁起』によると、建武年問、岸和田城に高波が襲いかかった時、海の彼方より大蛸に乗った法師が海岸まで近付き波風を鎮められ城は救われたという。
天正12年(1584年)、羽柴秀吉(豊臣秀吉)が尾張へ向けて大坂城を出発(小牧・長久手の戦い)。その隙を突いて、紀州征伐で敵対する根来衆・雑賀衆といった紀州の一向一揆の軍勢が、秀吉配下の中村一氏が寡兵で守る岸和田城へ攻め込み、大乱戦となった。数で圧倒する紀州勢の勢いが物凄く城が危うくなった時、蛸に乗った一人の法師が現れて、次々と紀州勢を薙ぎ倒した。しかし、紀州勢が盛り返して、蛸法師を取り囲もうとした時、海辺より轟音をたてて幾千幾万の蛸の大群が現れ、紀州勢を殺害することなく退却させた。一氏は喜び、その法師を探したが、結局分からなかった。ある夜、法師が一氏の夢枕に立ち、自分は地蔵菩薩の化身であると告げたので、その昔戦乱から守るため、堀に埋め隠し入れた地蔵菩薩像を出して祀ったという。
その後、一般の人もその利益(りやく)が受けられるように、日本一大きいとされる地蔵堂に移され、現在に至っている。
秘仏の蛸地蔵は毎年8月23日と24日に行われる地蔵盆の「千日大法会」で開帳される。特にこの日は、家内安全や無病息災を祈るたくさんの参詣者でにぎわってます!(^^)!
また、蛸を一切食べずに願をかける、風変わりな蛸絵馬が無数に奉納されている。
大阪府岸和田市にある近代和風建築と回遊式日本庭園。岸和田城二の曲輪の「新御茶屋」、「薬草園」の跡地に旧寺田財閥当主家別邸として建設されました。
岸和田城二の曲輪にあった「新御茶屋」および「薬草園」の跡地に旧寺田財閥当主で岸和田市長を務めた寺田利吉の別邸として昭和4年(1929年)から10年をかけて造成された。面積は約8000平方メートルで、回遊式庭園内に「山亭」・「八窓席」・「残月席」の3つの茶室が設けられている。表門「南木門」は奈良の東大寺塔頭中性院表門を移したものである。五風荘は当初、岸和田所縁の武士楠木正成の姓に因んで「南木荘」と呼ばれていたが、寺田利吉の諡号が「五風院」であったことから現在の名称に改められた。
所有者は昭和61年(1986年)に岸和田市土地開発公社、平成4年(1992年)9月に岸和田市へと移り、管理運営は平成20年(2008年)度まで岸和田市の外郭団体である岸和田市観光振興協会が担ってきた。平成21年(2009年)度からは指定管理者制度を導入し当指定管理者に選定された「がんこフードサービス株式会社」が当施設をレストランとして活用しながら管理運営を行っている。邸内の歴史的建造物は平成10年(1998年)に国の登録有形文化財に登録されていたが、指定管理者制度導入を機に、平成20年(2008年)、あらためて岸和田市指定有形文化財に指定された(これに伴い国の登録は抹消)。
建武元年(1334)楠正成の一族和田氏が、当時「岸」と呼ばれていたこの地に城を築き、根拠地としたことから「岸の和田氏」と呼ばれ、「岸和田」の地名の起こりになったといわれています。
その後、信濃氏、細川氏、三好氏、松浦氏、中村氏、小出氏、松平氏とかわり、寛永17年(1640)岡部宣勝が入城、以来13代続き明治を迎えました。
大正11年11月1日、大阪市、堺市に次いで府下で3番目に市制を施行し、今日に至っています。
岸和田城の別称は「猪伏山(いぶせやま)ちきり城」。「ちきり」とは、機(はた)のたて糸をまく器具で、本丸と二の丸を重ねた形が「ちきり」に似ているところから由来するといわれています。
また、ちきり城は「千亀利城」「蟄亀利城」とも書かれます。
現在の天守閣は、工事費2264万円を費やして、内部を図書館として活用する目的で昭和29年11月に竣工しました。外観は三層の天守閣と二層の小天守閣となっています。
天守閣の高さは、石垣の高さ約5メートル、石垣上部から鯱(しゃち)を含めた高さが約22メートルです。
昔の絵図に、五層の時の天守閣の高さは、石垣上部から18間(約32.4メートル)と記されているものがあります。
岡部宣勝(のぶかつ)が、岸和田城に入城したのは、紀州の徳川頼宣(よりのぶ)に異心があるとして、そのおさえのためだったといわれています。
ある時、江戸城で、二人が出会った際、頼宣に「君が和泉に居(お)られるのは、我らのおさえのためだと聞き及んでいるが・・・」と問われたので、宣勝は「大身(たいしん)のあなたをおさえるなど、とんでもないことです。せいぜい足の裏に飯粒が付いたくらいのことでしょう」と答えたという。
足の裏についた飯粒は、気持ちが悪いものです。宣勝は、岸和田藩を飯粒にたとえながらも、小藩の意地を通したものでしょう。これを聞いた頼宣は、唖然(あぜん)としたと伝えられています。
岸和田城の天守にそびえる鯱(しゃち)は、山門の仁王や神社の社殿前に置かれている狛(こま)犬と同様に、口を開けた「阿(あ)形」と、口を閉じた「うん形」の一対です。「阿形」は南側の鯱で、高さ約1.7メートル、「うん形」は北側約1.6メートルです。
山名氏が家臣の信濃氏を岸和田に入れたころ、城は今の二の丸のところでした。当時、二の丸は、海につき出た小高い丘で近くまで潮が差し入っていました。
「古今重宝記」には、松平康重時代に「其以前ハ二之丸石垣迄汐(しお)差入リ芦原ノ所、段々ト海退ニ付、当時ノ伝馬口ヨリ坂口御門迄新郭出来、町家等建候由、夫(それ)迄ハ南大手ヨリ東大手ヘ往環之所、当時ノ通リ往来ニ相成候」と書かれています。
このように、元和9年には紀州街道が整備され、また、堺口門、内町門、伝馬口門が造られ、城の表玄関は北大手門(今の市役所別館の入口付近)とされました。
その後、さらに海岸線が退き、岸和田浜町も整備されていきました。
五風荘と岸和田高校側の本丸の石垣の下に、さらに、犬走り石垣といわれる周堤帯があります。これは、正保の城絵図にすでに描かれています。
軍事的な意味から考えると、本丸への敵の侵略に拠点を与えるということから矛盾した造りで、他の城では、ほとんど見られないものです。
では、なぜ造られたのでしょうか。それは、上部の石垣が壊れ易いので、補強するために造られたものと考えられています。
城の周辺には多くの寺があります。東に光摂庵(こうしょうあん)、十輪寺、西に天性(てんしょう)寺、梅渓(ばいけい)寺、高天(たかま)寺、光明寺、心蓮(しんれん)寺、北に正覚(しょうかく)寺、観蔵(かんぞう)院、薬師院、本徳寺、本昌寺、円教寺、妙法寺、西方(さいほう)寺、浄円寺などです。 また、下野町の紀州街道沿いの山手側、春木川べりに岸和田墓地と加守墓地があります。
このように、城の周辺に寺院を多く配置しているのは、軍事的な意図があるようです。いざ戦いのときには、寺を陣屋にしたり、また、墓石を盾の代用にと考えていたのでしょう。
広さ8.62haの広大な敷地で、臨海部に広がる公園として親しまれており、サッカーやソフトボール等ができる球技広場とテニスコート4面があります。また、臨海会館の多目的室や会議室も利用できます。公園には東西に松林が続き、剪定枝や落ち葉のリサイクル事業も公園の一部を利用し実施しています。