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貝塚市の玄関口・・・貝塚駅

南海本線

南海鉄道が堺~泉佐野間を開通した明治30年(1897)10月に開業しました。駅名にもなっている地名の「貝塚」はかつて「海塚」の文字が使われていたといいます。大正14年(1925)に水間線(水間鉄道)が開業し、乗換駅となりました。駅の難波方面最初の踏切付近に“貝塚宮”と称される「感田神社」があり、毎年7月に勇壮な夏祭り「太鼓台祭り」が行われます。そこからさらに北西へ進むと、地元の人々から“ぼっかん(ト半)さん”と呼ばれる「願泉寺」があり、表門や本堂などが国の重要文化財に指定されています。

大阪府貝塚市内を約5・5キロのルートで結ぶローカル鉄道・水間鉄道

水間寺(通称:水間観音)への参詣鉄道として建設された。沿線開発も進み通勤・通学路線となっている。 終点の水間観音駅の駅舎は、1926年の全通以来のもので、1998年に国の登録有形文化財に登録されている。

水間観音駅の駅舎は、1926年(大正15年)の開業以来の建築です。1998年(平成10年)に国の登録有形文化財に登録されています。南海電鉄の貝塚駅から5.5km、全部で10の駅があります。単純に割り算しても駅間は600m程の小さな鉄道会社です。

この古い鉄道会社は、簡単に言うとバブル期の不動産事業への投資で失敗、2005年(平成17年)に経営破綻。2006年(平成18年)外食チェーンのグルメ杵屋が支援企業になり、杵屋が100%の株式を保有する新生会社として再出発しました。

また、過去には幻の分岐延長計画もあったほどです、、、。

清児駅から分岐し泉佐野市南部の犬鳴山を経て和歌山県那賀郡粉河町(現在の紀の川市)まで延長する計画があった。1927年、当時は水間駅の少し手前から粉河まで、犬鳴電気鉄道と粉河電気鉄道によって申請されたが粉河電気鉄道は却下。犬鳴電気鉄道は1928年1月21日に免許されたが期限内に工事施行の認可申請がされず1930年10月24日に免許が失効した。その後、水間鉄道が1950年12月23日に水間 – 粉河間の鉄道敷設免許を取得。資金調達のため1953年に紀泉鉄道という別会社を設立し、同年に起点を清児に変更して1955年6月16日に着工したものの、紀泉熊取駅の少し手前まで工事が進んだところで、資金不足で工事は中止された。1959年3月9日に水間鉄道は紀泉鉄道を吸収合併し、維持していた免許も1967年1月18日に山越えとなる犬鳴 – 粉河間が当面開通の見込みが無いとの理由で当時の運輸省より免許返納を勧められたため起業を廃止。残る清児 – 犬鳴間も何度か第三セクター方式で再起が試みられたが、資金調達の目処がつかず、1996年にこの区間の建設も断念し、こちらも起業廃止届を申請し、同年9月11日付で認可され計画は立ち消えとなった。

2006年現在、清児駅付近の住宅地内に残っていた用地は宅地化され、清児から熊取町七山付近までに痕跡が一部残るのみで、熊取ニュータウンの中央部に都市計画道路と一緒に確保されていた用地は道路用地を除きほとんど宅地化された(熊取ニュータウン内にある、敷地への立入りを禁ずる看板には水間鉄道のほかに道路管理者の名前も見える)。

「みずまの観音さん」として有名な水間寺

◆水間寺の由来(水間寺由来記より)
聖観音(当寺のご本尊)出現の瀧 - 「降臨の瀧」

聖武天皇42歳の厄年に夢のお告げ
水間寺の創建は、人皇四十五代聖武天皇が四十二才のとき、ご病気にかかられ、なかなかご平癒になられなかったその時、夢のお告げがありました。
「この奈良の都より西南の方角にあたって観世音菩薩がご出現なされる。よってこの観世音の尊像を都にお供をしてご信仰申せ」とのこと。聖武天皇は、勅命をもってこの仏像を探すことを命ぜられました。

行基菩薩が勅命を受け、この地に導かれる
その当時、生き仏として庶民より最も信頼されていた行基菩薩にこの大切な仏像を探すことを依頼されました。
行基菩薩は、この仏様を求めて、この奈良の地を発たれ、西南方の地を歩かれ、そうして到達したのがこの水間の地でありました。当時この地は今は想像も出来ないような山間部で、霊峰葛城の峯よりこんこんと流れる水の間に巨岩があり、原始林に囲まれた神域でありました。

行基菩薩が聖観音像を拝受
このとき突然「十六人の童子」が出現し、誘うともなく行基菩薩を谷間に導きました。そこにはこの谷間の美しい水の流れる巨岩の上に白髪の老人がおり、手に一体の仏様を捧げ、「汝を待つこと久し」と言って、自分の手首を自ら噛み切って、その尊像を行基菩薩に手渡し、そうして自分は龍となって昇天したと由来記に記されています。

聖観音像が当寺のご本尊として祀られる
この仏様は、一寸八分(約6cm)の閻浮陀金の聖観世音菩薩で、謹んでこれを天皇に捧げたところ、病は全快されました。聖武天皇は、この仏様を現地にお祀りするようにとの勅命を下し、その命をもって水間に行かれた行基菩薩は、堂宇を建立し、厄除け観音として庶民にも信仰されるように努められました。
降臨の瀧は、この地で一番のパワースポットです。

泉州最古の戎様 脇浜戎大社

持統天皇と倭舞

西暦七世紀、天武天皇のあとを継がれた持統天皇は朱鳥四年(690年)9月、紀伊の国(和歌山)を視察されたのち都への帰途二十一日、網曳御厨前身の漁場に立ち寄られ、この地の民の地引き網をご覧になりました。

かって推古天皇によってその基礎を置かれたという漁場ですが、壬申の乱等の長引く戦乱で荒廃したため、持統天皇は漁場の再整備と拡張を命じられ、翌二十二日天皇は現在の高龗神社で倭舞(神楽)を催されました。

九月二十二日はその後高龗神社の大祭日となり、この神楽は長い間村人たちにより継承されてきました。

その後明治の変動期にその伝統は途絶え、今は倭舞に使われた面などの一部が村の旧家に残されています。

舵を帆にした宝船

脇浜戎大社は脇浜・近木崎の戎社と加治村の嘉冶穂神社を合祀していますが、これは嘉冶穂神社にまつわる伝説です。

ある時沖合いに漁に出た船が、途中暴風雨に遭い帆を吹き飛ばされ皆途方にくれていたところ、『舵を帆にせよ』との戎神のご託宣があり、お告げのままに舵を帆ににして立ててみると、にわかに風雨おさまり一同大喜びで浜に帰りついた、と嘉冶穂神社の名前の由来となっためずらしくもめでたい物語が伝えられています。

船の舵を帆にして風雨をおさめられた戎様。人生航路の荒波を鎮め、無事目的地に運んでくださる『舵帆の守護』の伝説は千年の時を越えて、現在も脇浜戎信仰に生き続けています。

遠浅の静かな波が打ち寄せる脇浜・二色浜海岸一帯は、古来より豊かな漁場と白砂青松の景勝地として知られ、奈良・京都の都に近いことから宮中で食事などを司る『内膳司』という役所によって御漁場が置かれていました。

平安時代の諸制度を記した『延喜式』に『和泉国・網曳御厨』とその名前が記録されています。

『延喜式』によりますと、この地から毎月『子の日』と『巳の日』に塩漬けの鯛・鯵、干し魚や魚の内臓で作った調味料など二十石六斗を毎年都の役所へ納入するように決められていました。

当地の戎社は網曳御厨の守護として創祀されたと伝えられ、御厨の領地内二ヶ所に『事代主命』が戎神として祀られてきました。

明治時代、高龗神社に合わせ祀られた後も、御厨の戎様は泉州地方の人々から『脇浜のえべっさん』と呼び親しまれています。

勇壮な太鼓台祭りもこの神社で行われます。感田神社

 

南海電車の北側に鎮座し、古くは感田瓦大明神(かんだかわらだいみょうじん)と呼ばれた貝塚寺内町の土地の守り神=産土神です。天正15年(1587)に町民らによって建てられたとされ、以来地元の人々に信仰されてきました。寺内町は中世後半、願泉寺を中心に栄えた町で、感田神社の境内には当時町中にめぐらされていた環濠跡があり、かつての様子をいまに伝えています。毎年7月には、勇壮な「太鼓台祭」が行われ、宵宮では各家に献灯やまん幕が張られ、翌日の本宮で神輿の渡御が行われます。見どころは、赤いふとんがVの字に詰まれた1トンを越える太鼓台です。「ベーラベーラベラショッショ」の掛け声と共に、7台の太鼓台が勇壮に街中を練り歩きます。この祭は、泉州各地で行われる太鼓台祭の中で、最も古いものといわれています。

水間寺の裏山にある水間公園

 1976(昭和51)年に水間寺の本堂背後の通称「観音山」中腹につくられた、面積5.4ヘクタールの都市計画公園です。観音山の山頂は経典を埋納した経岡(きょうおか)があり、山道沿いには行基堂・弁天堂・薬師堂などがあります。江戸時代には、岸和田藩主岡部氏が鷹狩りの本陣をおいたことから「お成り山」と呼ばれたとも伝わっています。
広大な公園には自然林を生かした遊歩道があり、南に向かう「竹林の道」は馬場の遍照寺(へんじょうじ)に通じています。公園の南側には、コジイ・アラカシの常葉樹の林とアベマキ・コナラ・クスノキなどの落葉樹の林があります。
5月23日(日曜日)には、市の花「コスモス」の定植会を行います。みなさんの手で、市民の憩いの場「水間公園」をコスモスいっぱいにしましょう。